「競争社会」は学校から始まるのか

朝起きて、通勤して、働いて、請求書を払って、疲れて寝る。週末は回復して、また月曜が来る。
このループを「普通」と呼ぶ空気は、どこから始まったのだろう。

僕は最近、仕事や社会の話をしているのに、いつも“学校の匂い”が混ざる瞬間があると感じる。
「正解を当てろ」「評価を取れ」「遅れるな」「黙ってやれ」「競え」。この言葉たちは、会社に入って突然覚えたというより、ずっと前から体に入っていた感じがする。

もちろん、学校が全部悪いと言いたいわけじゃない。読み書きや基礎知識、友だちとの経験は本当に大きい。
ただ一方で、学校が“社会に適応するための訓練装置”として設計されている面もある。今日はそこを、極端な主張も含めて一度分解してみたい。

学校は「知識の場所」でもあり、「訓練の場所」でもある

教室を思い出すと、机は同じ向きに並び、チャイムで始まり、チャイムで終わる。先生が話し、生徒は聞く。時間割どおりに科目が切り替わる。
これって、学ぶために便利な仕組みであると同時に、「集団を同じリズムで動かす」仕組みにもなっている。

ミシェル・フーコーは、近代の社会が人を“従順で使いやすい身体”として整えていく仕組みを論じ、学校・軍隊・工場などの共通点として、時間割・監督・規律といった要素を挙げた(要約)。
ここで大事なのは、「陰謀だ」と言うことではなく、構造としてそうなりやすいという話だ。

つまり学校は、学力だけでなく「遅刻しない」「席に座る」「指示に従う」「評価に慣れる」といった、社会の基礎動作も教える。
これが良い方向に働けば、集団生活がうまくなる。悪い方向に働けば、“自分の頭で考える筋肉”が弱る。

競争は「勉強」より先に、心に入り込む

競争は、テストの点数や順位だけじゃない。
「先生に褒められるか」「親が安心するか」「恥をかかないか」「みんなより上か下か」——そういう感覚が、ゆっくり育っていく。

ここで怖いのは、勉強の目的がいつの間にか変わることだ。
本来、学びは好奇心のはずなのに、ある時から「評価を取るための作業」になってしまう。すると、学びは楽しくなくなる。楽しくないのにやめられない。
この状態は、そのまま大人の仕事にも似た形で引き継がれる。

教育学には「隠れたカリキュラム(hidden curriculum)」という考え方があって、学校は教科書の内容だけでなく、態度・服従・競争・役割分担なども“見えない形で”教えている、と説明されることがある。
僕はこれを知ったとき、学校の記憶が急に立体的になった。

「正解が一つ」だと思い込むと、人生が急に狭くなる

数学は美しいし、答えが決まる問題は訓練として重要だ。
でも、人生の多くは数学みたいに「正解が一つ」じゃない。むしろ、条件次第で正解が変わることのほうが多い。

それなのに、学校の訓練が強く入りすぎると、こうなる。

  • 正解が見えないと動けない
  • 権威が言ったことを“答え”だと思う
  • 失敗を「終わり」だと感じる
  • 自分の感覚より“採点”を信じる

ディートリヒ・ボンヘッファーは、悪意よりも「思考停止(愚かさ)」のほうが危険になり得る、という趣旨の言葉を残したことで知られている(文脈込みで読む必要はある)。
ここで言いたいのは、学校が人を愚かにする、という単純な話じゃない。考えないまま“正解っぽいもの”に乗る癖が、人を弱くするという話だ。

「努力すれば報われる」だけでは説明できない現実がある

努力は大事だ。僕もそう思う。
ただ、「努力だけがすべて」という語り方には副作用がある。

スタート地点が違う人たちを、同じゴールで比べてしまうからだ。
家庭の環境、時間の余裕、情報、安心感、周りの大人の関わり方。そういうものは、本人の意思と無関係に差が出る。

そして学校の競争は、ときにこの差を見えにくくする。
「成績=本人の価値」みたいに感じやすくなるからだ。
これが続くと、社会に出ても「評価=自分」という感覚が残り、承認を得るために働き続けるループに入りやすい。

じゃあどうする? —— ニーチェの問いを、現代の手触りで使う

フリードリヒ・ニーチェは、教育が国家や時代の都合に回収されてしまう危うさを繰り返し語り、学問や教育が“育てたい人間”よりも“必要な人材”へ向かうことを批判的に扱った。
(ここは誤読しやすいので、原文に当たるのが一番いい。)

じゃあ、僕らは学校を捨てるのか。社会を捨てるのか。
僕はそうじゃないと思う。やることはもう少し現実的で、たぶん地味だ。

学校や会社がくれる「評価の物差し」は便利だ。でも、それだけで生きると、魂が痩せる。
だから僕は、こう考えている。

  • 物差しは借りる。でも、自分の“目的”は自分で決める
  • 正解を探す前に、「条件」と「優先順位」を言葉にする
  • 点数の出ない学び(読書、制作、対話、身体感覚)を生活に戻す
  • 競争で自分を燃やすより、長く続く道を作る

この発想の中心にあるのは、「社会に合わせる前に、自分の核を作る」という姿勢だ。
学校から始まった“競争社会のOS”を、一度手元に取り戻す。僕は、それが現代版の「脱・条件付け」だと思っている。

まとめ

「働く。払う。死ぬ。」というループは、たしかに現実の一面だ。
でも、人生がそれだけで終わる必要はない。

学校は、学びの場であると同時に、社会のルールに慣れる場でもある。
そこで身についた癖は、社会に出てからも続く。だからこそ大人になってから、もう一度“自分で選び直す”価値がある。

競争そのものが悪ではない。
ただ、競争が「自分の価値」を決める道具になった瞬間、人は自由を失う。
僕は、そこから抜ける技術を、静かに磨いていきたい。

私見・所感

僕は、競争が嫌いなわけじゃない。むしろ競争があるから伸びた経験もある。
ただ、競争が「生き方の中心」に居座ると、いつも心が焦げ臭くなる。勝っても落ち着かないし、負けたら自分が消えたように感じる。

この文章を書きながら思ったのは、学校や会社を敵にするのではなく、自分の中の“学校的な癖”に気づくことが最初の一歩だということ。
気づいた瞬間から、選び直しができる。僕はそう信じている。

参考にした文献

  • フリードリヒ・ニーチェの教育批判(講義「教育制度の未来」英訳テキスト)
  • 近代社会の規律訓練(学校・時間割・監督など)についての議論:ミシェル・フーコー『監獄の誕生』関連(“Docile bodies”節の抜粋PDF)
  • 「隠れたカリキュラム」概念の概説(定義と背景)
  • ディートリヒ・ボンヘッファーの「愚かさ」についての議論(引用の出典案内を含む解説)

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