「遠野物語」という、民俗学のスタートライン
岩手県・遠野の名を全国区にした一冊が『遠野物語』です。
1910年、柳田国男が友人の紹介で出会った遠野出身の語り手・佐々木喜善(禎)から聞き集めた話を、ほとんどそのままの形で文章化して世に出しました。
当時、日本にはまだ「民俗学」という学問分野はありませんでした。柳田自身ももともとは官僚で、大学で民俗学を専攻したわけではなく、仕事のかたわら地方の“昔話”や“怪談”をノートに書き留めるところから始めています。やがてそれが本格的な調査へと発展し、その成果のひとつとして生まれたのが『遠野物語』でした。のちに柳田は「日本民俗学の父」と呼ばれるようになりますが、その原点がまさにこの一冊なのです。
『遠野物語』がユニークなのは、単なる「怖い話集」ではなく、きわめて“リアルな土地の記録”として書かれている点です。登場するのは、天狗、河童、座敷わらし、山男・山女といった妖怪だけではありません。どの村の、どの家の、誰が、どんな場面でその「不思議」を体験したのか――地名・家名・人名が具体的に書かれており、読んでいるとまるで遠野の山里を歩きながら話を聞かされているような感覚になります。
柳田はその冒頭で、「これはみな実際にあった話である」という趣旨の宣言をしています。もちろん現代の私たちから見れば、妖怪や座敷わらしを「全部ほんまの話」と受け取るのは難しいかもしれません。それでも、明治から大正にかけての山里で、人々がどんな恐れや願いを抱き、どう世界を理解していたのか。その“心の地図”が生々しいまま封じ込められている――そこに『遠野物語』の民俗学的な凄みがあります。
ニタ像・座敷わらし・キノコ 「怪異」と暮らしが混ざり合う場所

『遠野物語』には、ニタ像と呼ばれる老語り部の存在がさりげなく登場します。彼はもともと裕福な家の出でありながら没落し、峠の近くに住み着いては、通りがかる人に酒をふるまい、かわりに昔話や不思議な出来事を語り聞かせる――そんな人物として描かれています。
柳田が直接会ったのは佐々木喜善ですが、その佐々木に大量の話を伝えた“元ネタ”の一人として、このニタ像が浮かび上がります。九十歳を超える齢で、なお記憶の底から物語を掘り起こす彼は、遠野という土地そのものの“声”を体現しているかのようです。
遠野の怪異譚の中でもよく知られているのが、座敷わらしの話です。遠野周辺には、家の座敷に子どもの霊のような存在が棲みつき、その家を繁栄させるという信仰が広く伝わっています。『遠野物語』でも、「ある家に二人の女の子の座敷わらしが住みついており、その家は代々栄えている。しかし、ある日を境に座敷わらしが出て行ってしまい、その後、家には不幸や病が続いた」といった話が記録されています。
そこに絡んでくるのが「キノコ」のエピソードです。山で採れたキノコを皆で食べ、一家・あるいは村人が次々と倒れていく――現代的に読めば“キノコ中毒による集団食中毒”ですが、当時の人々はそれを「座敷わらしが去ったせいだ」「土地の霊的なバランスが崩れたせいだ」と受け止めました。
興味深いのは、現代のフィールドワークでも、同じ地域で“キノコ”が象徴的なモチーフとして語られていることです。ロケ中に山でキノコを採っていた運転手が現れ、「それは捨てたほうがいい」と忠告した、というエピソードも紹介されています。
科学的な毒性の問題と、土地の怪異としてのキノコ伝承が、百年以上の時を超えて同じ場所で重なり続けている。遠野では、自然と人間の境界にあるものほど、物語の核になりやすいのだと感じさせられます。
現地で聞く「遠野物語」恥ずかしさと、まだ続く不思議
書物としての『遠野物語』を読むのと、実際に遠野を歩いて、伝承の子孫に話を聞くのとでは、見えてくる景色が少し違います。
たとえば、ニタ像の孫にあたるおばあさんにインタビューした際のエピソード。こちらが「おじいさんは有名な語り部で、『遠野物語』の重要な人物ですよね」と水を向けると、本人はどこか気恥ずかしそうに笑う――そんな姿が語られています。
『遠野物語』のなかでは、彼の家系は貧しくなり、奇妙な出来事や失敗談もかなり生々しく書かれます。子孫からすれば、「うちの先祖をそんなふうに書かれては困る」という気持ちがあっても不思議ではありません。伝承は“地域の宝”であると同時に、“個人のプライバシー”にも触れてしまう。ここに、民俗学の難しさがはっきりと表れています。
しかし一方で、そのおばあさんは別の不思議な体験については、むしろ楽しそうに語ります。「晴れているのに、ある一角だけ雨が降る」「毎日、山から火の玉が下りてくるのを見た」――そうした話は、恥ずかしげもなく、むしろ誇らしげに語られることが多いのです。
ここには、「遠野物語に書かれた“物語としての自分たち”」と、「自分たちが日常として信じている不思議」のあいだに、微妙な距離感が存在しているように思えます。文字にされ、全国に流通した瞬間、伝承は“公共財”になります。しかし、現地の人々にとっての不思議は、あくまで自分たちの家の、村の、静かな思い出でもある。そのギャップこそが、現地に足を運ぶフィールドワークの面白さであり、難しさでもあるのでしょう。
柳田国男のまなざし 「山人」と周縁に残る言葉

柳田国男は、ただ妖怪譚を集めたかったわけではありません。彼が見つめていたのは、「この国の民がどんな世界観で生きているのか」「近代化で何が失われていくのか」という、大きな問いでした。
『遠野物語』には、山に住む人々――山男・山女といった存在がたびたび登場します。彼らは、日本人とは少し違う顔つきや体つきをしており、独特の技術や生活様式を持っていると描写されます。現代の目で見れば、「山地に暮らす別系統の集団」あるいは「周縁に追いやられた人びと」の姿が、妖怪として語られている可能性もあります。柳田は、こうした存在を決して“ただの作り話”として切り捨てるのではなく、「別の暮らしをしてきた人々の記憶」として真剣に向き合いました。
同時に、柳田は言葉にも強い関心を持っていました。新しい言葉は中央(都市)から生まれ、古い言葉は周縁に残る――という「中心と周辺」の考え方です。彼は沖縄や東北などの方言を丹念に採集し、そこに古い日本語の痕跡が色濃く残っていることを示しました。
この視点を遠野にあてはめると、山里に残る昔話や妖怪譚も、単なる“迷信”や“やばい話”ではなく、古い信仰や生活技術の“言語化された記憶”として見えてきます。
たとえば、山の神を怒らせないために「この木は切るな」「この沢には入るな」と戒める話は、土砂崩れや獣害といった現実のリスクを避けるための、非常に合理的なルールでもあります。
柳田の功績は、こうした口承の知恵を“田舎の迷信”として片付けるのではなく、「近代に押し流されてしまう前に、きちんと記録しよう」と本気で考えたことにあります。その第一歩が遠野であり、そこから日本各地のフィールドワークへと視野を広げていきました。
遠野から広がる、日本各地の「周縁」とわたしたち

遠野の物語を読んでいると、不思議な既視感を覚える瞬間があります。
たとえば、沖縄や奄美の島々では、「ケムンパス」のような妖怪や、山や海の神にまつわる伝承が、日常の行動規範と強く結びついて残っています。特定の木を切らない、海に出る日は決まった作法を守る――そうしたルールは、単に“罰が当たる”という恐れだけでなく、生活を守るための経験則として機能しています。
遠野の“山人”や妖怪伝承も、同じように人々の暮らしと密接につながっています。全国各地の“周縁”を見比べると、「違う土地なのに、なぜか似た構図の話がたくさんある」ということに気づきます。柳田はそうした共通点に注目し、「日本人とは何者なのか」「この列島で長く受け継がれてきた感覚とは何か」を探ろうとしていました。
現代の都市生活者から見ると、遠野の座敷わらしやキノコ譚、山男の話は、どこか“ファンタジー”のようにも感じられます。けれども、それは同時に、わたしたちがいつの間にか失ってしまった「世界の感じ方」を照らし出す鏡でもあります。
科学技術によって世界を説明できる部分は増えました。しかし、説明できることと、納得して生きられることは、必ずしも同じではありません。遠野の人々は、山や川やキノコや座敷わらしに“意味”を見出すことで、自分たちの暮らしと世界のあいだに、ある種の秩序や物語を与えてきました。
『遠野物語』を読み、実際に遠野を歩き、現地の人の言葉に耳を傾けることは、単なる「妖怪探訪」ではありません。
それは、「自分たちの祖父母の世代が、どんな世界観で生きていたのか」を追体験するフィールドワークでもあり、同時に、「自分はどんな世界観を信じて生きているのか」を問い直す作業でもあります。
柳田国男が残した“民族学のスタートライン”としての遠野物語。
それは今もなお、私たちに「忘れてしまった感覚」を静かに思い出させてくれる一冊なのだと思います。
参考にした文献
- 柳田国男が『遠野物語』(1910年)を刊行し、日本民俗学の出発点と見なされていること。ウィキペディア+1
- 『遠野物語』が、岩手県遠野の民話・妖怪譚(河童・座敷童子・山男など)119話を収録した聞き書きであること。ウィキペディア
- 柳田国男が「日本民俗学の父」と呼ばれ、田野調査と周縁の言語・伝承に重きを置いたこと。ウィキペディア
- 「中心と周辺」の言語観(新しい言葉は中央から広がり、古い言葉は周縁に残る)や、方言・周縁文化の重要性に関する柳田の議論。ウィキペディア
- 遠野地域が、のちの人類学者・民俗学者(伊能嘉矩など)にも強い影響を与えた“フィールド”であること。ウィキペディア
